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武蔵野航海記

武蔵野航海記

伝統世界への回帰

軍部は消滅し「アジアの盟主」という思想も消えました。

天皇は特に理由もなく存在しているという昔の状態に戻りました。

日本の領土は日本列島だけに戻りました。

平安時代のように軍隊が日陰の存在になっている状態に戻りました。

民主主義という一度放棄した外国の価値観をまた使うようになりました。

勤勉に働くという江戸時代に獲得した性格は健在で急速に経済は復興・発展していきました。

「同じ釜の飯を食う」仕事仲間と一家意識を持ち運命共同体を形成するという発想も健在でますます強固になっています。

社会や国家を自然の一部として存在していると考え、人間が目的に合わせて作った機能的な組織だとは思わない「あるべきようは」という思想も健在です。

全てが昔ながらの伝統世界に戻ったのです。

日本は戦後の混乱を収拾して秩序を回復し経済発展にまい進しました。

そして社会が安定し経済的に成功するに従って、企業、官庁や各種の利益団体といった運命共同体も拡大し力をつけていきました。

運命共同体は自分の利益を社会全体の利益より優先しますから、各官庁や大企業などが利権を作り上げていきました。

不要な道路・建物などの公共事業、福祉の垂れ流しや同業者どうしの談合などがこれです。

外国に対する政府無償援助など一見利権とは関係ないように思えるものも、相手国政府と日本の政治家や企業が一体となった利権集団を形成しています。

これらの不正が利権を握る運命共同体によって行われていることを日本人は既に気づいています。

最近は新たな家元制度も出来てきました。

家元制度は平安時代に天皇制の周囲で出来たもので、歌、音楽、法律などが特定の家の家職となって継承されたことが発展していったのです。

家職という無形資産がその家の財産であり利権のネタでしたから、神秘的な由緒を作りその価値を実態より大きく見せようとしました。

この伝統が後にはお茶や剣術・歌舞伎などの古典芸能などにも拡大していき、新しくは俳優なども親のあとを継ぐ家元制度になりました。

そしてついに政治が家元制度になりました。

今の国会議員の多くが二世三世です。

そして選挙区で彼らを応援するのが地元の地方自治体の議員、郵便局長、地元企業の経営者、医師会の会長、職員組合の幹部といった「弟子」たちです。

彼らが家元である「先生」の周囲に結集して運命共同体を形成し利権を維持・拡大しています。

そして政府からお金が流れ出ていく仕組みが出来上がったのです。

家元制度を支えているのが日本人独特の「あるべきようは」の思想です。

学問の研究者、芸術家、政治家などはそれぞれの専門性を発揮するプロフェッショナルというのが本来の姿で、彼らが弟子に技術や情報を教えるというのは当然のことです。

ところが日本人はこの先生と弟子や子供で作る関係そのものを自然物と考えてしまい、自然の秩序の中で居場所を与えてしまうのです。

そして同じ職場で働く仲間として一族意識を持ち技術の世襲をしてしまうのです。

このようにして教え教えられるという機能的な関係が運命共同体となり最後に利権集団を結成してしまうのです。

近代の日本の歴史は、運命共同体の発展に伴う日本の発展→ 停滞→ 崩壊の歴史です。

明治になって軍隊・官庁・企業などが新しく生まれ若々しく順調に発展していきました。

やがてこれらの組織が「同じ時釜の飯を食う」一族意識を持った運命共同体になっていき、自分たちの組織の利益を最優先するようになっていきました。

その結果国家としての行動が統一のとれないものになっていったのです。

陸軍・海軍・外務省・大蔵省・財閥といった巨大運命共同体がそれぞれの利益を追求してばらばらに行動し始めました。

そして最終的に最も強力な陸軍という運命共同体が日本を支配して日本は壊滅しました。

戦後は企業が日本発展の原動力となり奇跡的な経済発展を遂げました。

その過程で企業は下請け企業群を系列化しグループ全体が強固な運命共同体になっていきました。

そして同じく運命共同体である監督官庁とも連携して更に大きな運命共同体である利権集団を作り上げました。

このため現在の政府の債務は、GDPの2倍にあたる1000兆円を越えてしまいました。

それに各種団体の隠れ債務をあわせると1500兆円にまで膨らんでいます。

4人の一家族あたり5000万円近くの借金を抱えているのです。

それも住宅ローンや事業資金といった前向きの借金ではなく足りない生活費をサラ金で補うといった性質のものが多いのです。

今日本の財政は破綻する可能性まである状態です。

さらに外国に対する常識では考えられない対応の背後にも利権集団の影が見え隠れしていますから、日本の利権集団の力の大きさが分ろうというものです。

ここまで利権集団の力が強くなったのは、自分の所属する職場への所属意識が極めて強く、その上の社会とか国家という大きな集団を既にある自然物としてしか考えないからです。

国家や社会を一定の目的を持った機能的集団としてそれを目的に合わせて運用していくという発想が極めて乏しいのです。

支那の社会は宗族という男系の先祖を同じくする血縁集団が基本になっている社会です。

しかし、このばらばらに散らばっている宗族を一つの国家に統合するための政治思想が儒教です。

道徳で以って国家を運営するという目的に沿うように国家を機能的に運営しようという考え方です。

民主主義はキリスト教の神と直接つながっている個人個人を国家に統合するための思想です。

各個人が神に対する信仰生活が出来るようにするのが国家の目的です。

このように儒教も民主主義も国家という大きな集団を正義の実現という目的に沿うように運営するための機能的な思想です。

ところが日本では儒教や民主主義のこのような機能を理解せず、国家や社会は自然物だという発想に合致するように作り変えてしまいました。

このようなわけで日本では「民主主義」が運命共同体である利権集団を統制することができないのです。

日本には「国家は正義を実現するための手段だ」とする発想がありません。

だから政府というのは多くの運命共同体の利害を調整することが役割になっています。

鎌倉幕府は御家人という農場主たちの利害調整機関でした。

江戸幕府も大名の利害を調整するためのものでした。

現在の日本の政府も官庁や企業・業界団体・労働団体などの運命共同体である利権集団の調整機能を果たしており、神の正義を実現するという発想はありません。

日本が国家の目的を持ったのは明治時代と戦後の一時期でした。

日本の独立と復興を至上命令としていたのです。

この目的の下に日本人は結集し目覚しい成果を挙げました。

しかし日露戦争に勝ち、日本の独立を確保したあとは目的を喪失し、利権集団の調整機能を果たすだけになってしまいました。

そして最大の運命共同体である軍部が日本を支配することになったのです。

また戦後の復興が完了し経済的に豊かになって国家目的も消滅しました。

日本人の発想の基にあるのは社会というものを含んだ「自然」というものです。

その中で人や社会組織は自分の本来居るべきところにいるのが正しく、「自然」自体が善悪の判断基準を持っているわけではありません。

この世界では、人と人との関係、人と組織との関係という個々の関係が正しいかどうかという相対的な正しさを判断することになります。

例えば自殺をするという行為を考えても、他人に迷惑をかけ自分の義務を放棄するような自殺は認められません。

しかし「心中」のようにこの世のしがらみから逃れて愛を全うするための自殺は決して非難されていません。

行為自体に善悪はなく相対的な情況で判断されます。

ところが神という善悪の判断をもったものが支配している社会では、自殺という神の領域を犯す行為は間違っており理由の如何は無関係です。

このように日本は相対的な判断の世界で、「誠意があるかどうか」「義理や恩を欠いていないか」という基準で判断します。

そして当事者同士が納得すれば、それで問題が解決される世界です。

動かない善悪の判断基準がありませんから、日本人は同じことでも時間と場所が違うと正反対の行動をとることがあります。

状況が違えば判断が違ってくるのは日本人だけでなく世界中の人間は皆そうです。

しかし動かない善悪の基準を持っている国民は、目的と手段を混同しません。

隣国との友好関係を維持するか否かは、自分たちの正義や利害を照らし合わせて判断します。

しかし日本では隣国との友好関係の維持が目的になってしまっています。

「平和」に対する態度でも同じ敗戦国であるドイツと日本では異なります。

ドイツ人にとっては平和とは目的でなく手段ですから、戦後間もなく軍隊を復活させています。

一方の日本では戦争をしないことが目的になってしまっています。

動かない善悪を持っている国民にとっては単なる手段であることが日本では目的になってしまいますから、現実に起こっていることへの認識が違ってきます。

日本人の「目的」に反する事実があってもそれを認めずあくまで「目的」を維持しようとします。

北朝鮮が日本人を拉致した事実を日本人は永年にわたって認めようとしませんでした。

「誠意」を持ってお互いがあるべき場所に収まるのが正しいとする発想は、日本人だけが持つもので外国人には通用しません。

欧米人や支那人の判断基準は絶対的な世界観から導き出された善悪です。

ヨーロッパ人の場合は神の意思であり、支那人は「天」の道徳基準です。

彼らには「相手の納得」などという判断基準はありませんから、自分の正当性を主張することに終始します。

こういう外国人を相手に日本人が「誠意」を強調する姿は滑稽でさえあります。

日本人が支那人や朝鮮人を相手の交渉で負け続けている原因はこれです。

「あるべきようは」という思想は鎖国時代のもので、現在の日本のとってはマイナス面が非常に多いのです。

このように判断基準が相対的であって、客観的なルールというものが存在しない世界が日本です。

紛争が起きても裁判に訴えることが少なく当事者同士の納得で解決してしまうのはこういう理由です。

運命共同体が自分たちの利益を追求する行動をしてもそれを規制する客観的なルールが実質的に存在せず、関係者の納得が得られれば問題になりません。

このようにして大きな力を持った運命共同体の勢力が拡大していくのです。

憲法や法律というのは、ヨーロッパ流の「権利」と「義務」を定めたもので神の意思という動かない基準から出てきたものです。

日本人はこういう客観的な動かない基準を使う習慣がありませんから、法律も実際には使われていません。

だから利権集団が国家の利益を侵害していることを防ぐ道具として憲法や法律が機能していないのです。

最近の憲法改正論議を見ても、日本はどうあるべきだという議論をしているのではありません。

どのようにして現実と合わない条文を現実に沿うように改めようという議論です。

もっとも日本国憲法自体が成立していませんから、「改正」の議論そのものがナンセンスですが。


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